2009年9月22日、昭和の生き証人がまた一つ灘から消えた。
80余年の間、灘の南北をつないできた橋がその役目を終える。
昭和初期にかけられた灘駅跨線橋は新しい自由通路の完成によって
解体撤去される。
三宮から一駅、都心の駅の建造物とは思えないその風情は貴重な風景だった。
前日に開催された当サイト主催のイベント「灘駅跨線橋渡り納めツアー」には
多くの参加者が集まった。
岩屋の自宅から水道筋の市場にあった店まで毎日この橋を自由通路として
往復した鮮魚商の大将は、愛おしそうに橋を触った。
重い荷物を持ってこの橋を毎日毎日上り下りしたという。
「懐かしい思い出の橋やから、お別れに来てん」
駅を通り抜けるときに発行された通行許可証も橋と一緒になくなる。
「この橋から僕らの生活が始まった」
故郷を出て、神戸に来た沖永良部出身のSさんは懐かしそうに古い橋を眺めた。
「永良部人(えらぶんちゅ)は、灘駅には特別な思いがあるねんで。
僕らにとっての『あゝ上野駅』や」
『あゝ上野駅』は集団就職の少年たちをテーマにした井沢八郎のヒット曲だが
灘駅周辺に多く住む奄美・沖永良部の人たちは、悲喜こもごもの出会いと別れが
繰り広げられた上野駅を灘駅と重ね合わせたのだろう。
「いやあ、最後の最後間に合いました!」
切り絵作家の成田一徹さんが南口で跨線橋をカメラに収めていた。
成田さんはかつて「昭和の残り香」として灘駅を切り絵にした。
水道筋の酒場で跨線橋解体のことを聞き、急遽駆けつけたという。
少し上気した顔で、子どものようにシャッターを切っていた。
2004年に開催したイベント「灘駅で本を読む日」で灘駅で本を読んだ朗読家の甲斐祐子さんは
この日ホームの端で小さな小さな朗読会を行った。
甲斐さんが「古い橋」に向けて最後に読んだ作品は、灘駅前、原田の森にあった関西学院出身の詩人、
竹中郁の「伝言板」だった。
――先にゆく 二時間も待った A
恋人どうしか ただの友達どうしか
――先にゆく 先にゆく
おれも なにかを待っていたが
とうとう この歳になっても 来なかったものがある
名声でもない 革命でもない もちろん金銭でもない
口で云えない何かを待った
いま広大無辺な大空に書く
白い白い雲の羽根ペンで書く
――先にゆく と
灘駅は先にゆき、残されたクミンの心には、何度も何度もペンキが塗り重ねられた人の皮膚の
ような壁の手触りと、人が通るたび音を立てる木の階段のゴトゴトという音が消せないシミの
ように残った。
新しくできる自由通路は灘駅で分断された南北の街の人の悲願だったことはよく分かる。
分かるのだが、なにか釈然としないものが残る。
古いものを残しつつ新しい自由通路を確保することはできなかったのだろうか。
灘駅の建造物は水害も、戦災も、震災もくぐり抜けて来た貴重な歴史遺産だったはずだ。
もう2度と作ることはできない。
新しい自由通路には前の駅舎にあった窓をモチーフにしたデザインが施された。
こんなものはあくまでも「イメージ」でしかない。
この駅に蓄積された無数の記憶や手触りは再現することはできない。
新しい橋(自由通路)を見て唖然とした。
南口にまるで天上寺参道のような長大な階段が聳えていた。
58段あった。
古い跨線橋は37段。
21段も階段が増えている。
もちろんエスカレータはない。
これではバリアフリーの名の下に壊された古い橋が浮かばれない。
今日から新しい橋は新しい記憶を積み重ねて行く。
この新しい橋が、古い橋のように愛される橋になるかどうかは
灘クミン次第なのだ。
最終電車が来る少し前、線路際で小さなイタチが跨線橋を見つめていた。
彼らの遊び場も今日でなくなる。
新しい橋にイタチは寄り付くまい。
さようなら、そしてありがとう灘駅跨線橋。