今年創立130周年を迎えた西灘小学校前にある西灘地下道は好々爺という言葉が相応しい。
なぜか地下道独特の陰鬱さをあまり感じない。
むしろ乾いた明るさがある。
あそうだ、ちょっと笠智衆に似ている。
「いつも子どもたち見てもらってありがとうございます」
なんて言ったらきっと
「いやあ」
なんて頭を掻きながら照れくさそうに笑うに違いない。
西灘地下道は昭和の訪れとともに誕生した。
昭和5年に完成した西灘村耕地整理の記録写真にもその姿を見ることができる。(写真下)
左端に見える出入り口が初代西灘地下道の勇姿だ。
その後ろの建物は西灘小学校の旧校舎、正面の小さな建物は森交番、手前の道は開通したばかりの
阪神国道(国道2号)で、道路の中央には阪神国道電車の軌道敷も見える。
車もまばらで、まだ馬が牽く荷車も行き交っていた。
この交差点の少し先に西灘村の役場があった。
当時このあたりは、神戸市ではなく武庫郡西灘村と呼ばれていたのだ。
「神戸っ子殺すにゃ刃物はいらぬ、平地に連れてきゃ狂い死ぬ」
と揶揄されるほど、坂の街に育った神戸人は他の街と比べて坂好きが多い。
日本最大のドM登坂イベント、六甲山全山縦走が大盛況なのも平地で育った
街の人には考えられないだろう。
そしてケーブルカーへの偏愛は、もはや「坂萌え」と呼んでもいいし、
灘だんじりにおける民衆の熱狂は坂があってこそだ。
坂を見るとつい登ってしまうという悲しい性を持つ灘っ子にとっては
西灘地下道の背中は気軽にのぼれる「坂」だった。
タッチの浅倉南は階段を登って大人になったが、灘っ子は坂道を登って大人になる。
地下道の急すぎず、緩すぎず、絶妙の傾斜は下校途中の子どもたちを魅了した。
スロープに寝転がって空をみたり、買ってきた串カツを食べたりした。
西灘地下道は背中に登って楽しむ「遊べる都市インフラ」だったのだ。
ザラザラとしたモルタルの背中は、グリップ力があって登りやすく、
「世界長グッピー」でもずり落ちない。公園の滑り台とは似て非なるものだ。
出入り口近くではヒヨコ売りや篠鉄砲売りなどのあやしげな露天商が店を開き、
目立ちたがり屋がてっぺんで西城秀樹を熱唱するステージにもなった。
いつも子どもたちが集う地下道は孫を背中に乗せてあやす「おじいさん」の姿そのものだった。
しかし、平成のリニューアルで西灘地下道の姿は一変する。
腰回りにはレンガタイルが貼られたのは百歩譲ったとしても、
直角三角形フォルムからシリンダー型への改変はとうてい看過できない。
つまりですね、子どもが地下道の背中に登れなくなったわけですよ。
「背中に登られへん地下道なんか地下道ちゃうわ!」
きっと子どもたちは変わり果てた西灘地下道に激しく落胆したに違いない。
いや、一番寂しかったの背中に子どもたちの重さを感じなくなった西灘地下道自身かもしれない。