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2009年12月15日(火曜日)

都賀川ハードボイルド階段

カテゴリー: - naddist @ 18時00分40秒

都賀川ハードボイルド階段

最近階段が気になる。
階段といってもマンションの階段や、家の階段ではなく街の中にある階段。
気になるといっても「この階段、バリアフリーじゃないな」という気になり方ではなく、
むしろそれとは真逆で「上ってみるなら(下りてみるなら)上ってみろ」的な風情の
階段にワクワクする。

もう「ここで足を踏み外しても本望」と思えるほど愛おしい階段が都賀川にある。
都賀川が山手幹線と交差するあたりにある河床へ下りる小さな階段。
その「ワル」なたたずまいにグッと来る。
おそらくこの付近だけ公園化が遅れているので、昔の階段が残ってしまった
といった感じの明らかに昭和風情の「残っちゃいました系」の階段。
今のように河川敷におりて水と親しむための階段ではなく、落ちた物を拾うとか
非常階段のようなものだったのかもしれない。
昔々に上流から流されてきた石を思わせる歴史を感じさせる肌触り、なにか城塞の階段を
思わせるワイルドさは、きれいに整備された都賀川沿いではあきらかに異質なたたずまいで、
階段面(踏みづらという)もぼこぼこして、手すりすらない。
まるで上り下りすることを拒否しているかのように思える。
安心安全的な視線でみると、明らかにキケンな「肉食系階段」で、きっとちっちゃな時から
悪階段で15で不良で呼ばれたに違いない。
だいたい人に媚びていないのがいい。
「オレに近づくとケガするぜベイベー」的なハードボイルドさにそそられる。
都賀川は親水化され、誰もが気軽に川にアクセスできるようになった。
それはとてもすばらしいなことだと思うが、川は公園ではなく自然だということを忘れては
いないだろうか。(たとえ人工的なしつらえになっても)

そこで、このハードボイルド階段の存在が重要になってくる。

先週、都賀川の自然を象徴するかのような素敵な記事が新聞に掲載された。
灘区在住の水中写真家、宮道成彦氏が都賀川でアユの産卵の撮影に成功した。
振り返れば昭和40年代には洗濯排水が泡立ち、自転車が捨てられ、死んだフナに蛆がわき、
足にヒルが吸い付き「でかいドブ川」とまで呼ばれた都賀川をここまで蘇らせたのは、都賀川を
守ろう会を中心とする灘クミンの「灘魂」のたまものだと思う。
そして、かつては石垣に這いつくばって下りた川へのアクセスも容易になった。
しかしこの環境を守っていくためには、時にアクセスのしやすさが仇となる場合がある。
都賀川は親しい友人でもあるが、雄大な自然の一部である。
都賀川ハードボイルド階段は、そんな踏み外してはいけない人と川の一線を教えてくれている
ような気がするのだ。

この階段もいずれはなくなるのだろう。
その前に是非足を踏み外さないように下りてみていただきたい。


2009年12月3日(木曜日)

灘の廃線跡を行く〜神戸臨港線編

カテゴリー: - naddist @ 09時00分26秒

神戸臨港線踏切(2003年12月)

短い汽笛が「ポッ」っと寒空に響く。
あ、9時や…
実家のすぐ近くが、神戸港へ向かう臨港線の始発場所だった。
毎晩9時に港へ向かう貨物列車が発車する。
その音が時を告げる鳩時計のように暮らしにとけ込んでいた。
灘の街から臨港線が消えて8年たった。
神戸の重要な魅力の1つ「ミナト」を、アピールできる資源の1つだったので残念に思う。
観光や生活路線として再活用することはできなかったが、遊歩道化され「市道臨港線」として
生まれ変わった。
今まで歩けなかった線路敷を歩いてみることにした。

JR灘駅の南、踏切があった場所から遊歩道が始まる。
長い長い貨物列車をやりすごした踏切。
近くの溝ではザリガニが釣れた。
残念なことに、踏切の東側に線路に立ちふさがるように無粋なマンションが建ったが
このマンションを建てた会社は今年潰れた。
言わずもがな、である。
街の歴史に敬意を払わない報いだ。

道路をまたぐ鉄橋も形を変えて残された。
「庄境架道橋」とかかれた橋の下を通るのは区境の道路。
きっと古くから村の境目だったのであろう。
昭和4年までこの道路から西が神戸市で、東側は武庫郡西灘村と呼ばれていた。
文字通りここから街が変わる。匂いが変わる。
男と女の間には深くて暗い川があるらしいが、子どもにとっても灘区と旧葺合区の間に
道幅以上の距離を感じたものだった。

庄境架道橋

旧神鋼病院北のカーブ

臨港線は灘区から旧葺合区域へ入ると、南へ大きくカーブする。
遊歩道には鉄道のキロポスト表示を模したサインもある。
またところどころホンモノの標識も残されている。
カーブの南側にバームクーヘンのような形が斬新だった神鋼病院があった。
毎週のように通った思い出の病院。
高度経済成長期、工場が林立し「灘名物の百煙突」とも揶揄された灘・葺合の海岸部は
空気も悪かった。小児喘息で苦しむ子どもも多く、私もその一人だった。
神鋼病院の小児科の待合室には毎日大勢の喘息児童があふれ、苦しそうな咳が病院内に響く。
それがいやで、診察を待つ間病棟の外に出て臨港線を眺めた。
長い貨物列車がカーブをゆっくりと通り過ぎると、ディーゼル機関車の排煙のむせるような
熱気と匂いがあたりに漂った。
現在はこのカーブのあたりに小さな線路が引かれている。
隣接する県立科学技術高校の鉄道研究会の模型蒸気機関車走行会に使われるという。
皮肉なことに臨港線がなくなって本物の蒸気機関車が走ることになったのだが、
歴史を踏まえた素敵な仕掛けだと思う。

旧神鋼ファウドラー付近

山側に目を向けると、かつては甍(いらか)の波ならぬ、神鋼ファウドラーの水色のトタン屋根
の波が広がっていた。
現在はマンションが林立し風景は一変してしまったが、遠くに見える摩耶山の紅葉は昔のままだ。
このあたりでは琺瑯タンクが製造されていた。おそらく灘の酒蔵でも醸造用タンクとして使われ
ただろう。この近くにある灘の地ソースメーカー「プリンセスソース」では、今でもここで造ら
れたタンクが使われている。

脇浜拱橋

いよいよこの臨港線のハイライト「脇浜拱橋」にさしかかる。
伸びやかな鉄橋で広い国道2号をまたぐ。
国道を西へ向かうとき、この橋をくぐると灘区を出たという感覚になった。
心理的な灘区の西のゲートだったのかもしれない。
橋上には架線柱も残され、かつての神鋼ファウドラーの屋根の色と呼応するかのような
懐かしいベビーブルーもまぶしく塗り直されている。
まさかここを歩いて渡れるとは思いもしなかった。

脇浜拱橋

重工業の街から新しい街へ、震災後めまぐるしく移り変る臨港線沿線だが、
脇浜拱橋を渡ると昭和のあじわいを色濃く残す懐かしい風景に出会った。
歴史を感じさせる日本香料の社屋が、軌道脇にそっとたたずんでいた。

日本香料

そのユーモラスな姿から「春日野道のゾウさん」と呼ばれた、川鉄「西山記念会館」のあたりで
遊歩道は終わるが、一部本物の鉄路が保存されていた。
枕木の間に雑草が生えている、あの懐かしい臨港線のたたずまいそのものだ。
HAT神戸方面から歩いてきた親子連れが不思議そうに線路を見つめていた。
「なんでこんなところに線路があるんかなぁ」
彼らはこの線路の上を「神戸港からヨーロッパへ向かう欧州航路の船客を乗せた特別列車が走った」
ことなど知る由もない。
線路にそっと耳をつけてみて欲しい。
もう貨物列車は走ってこないが、明治、大正、昭和とミナトコウベを支えてきた老兵のつぶやきが、
あるいは、この周辺の工場で働いていた人々の息づかいが聞こえてくるかもしれない。

残された臨港線の線路

2009年12月5日(土)に、臨港線跡を探訪するツアーを開催します。
解説付きのガイドウォークです。
ふるってご参加ください。
詳しくは下記リンク先をご参照ください。
「灘まちなみ建築探訪vol.11〜臨港線編」



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