いにしえの六甲道に思いを巡らせる「永遠の六甲道」を今回から灘区全域を対象に、
昭和の残り香を訪ねる「灘区昭和館」としてリニューアルしましたのでよろしくお願いします。
都賀川の事故から1年経った7月28日、「都賀川を守ろう会」による慰霊式典が行われた。
いつもはおだやかな、摩耶六甲の山並みも、都賀川のせせらぎも、一度牙を剥けば
恐ろしい自然だということを、灘クミンは肝に銘じなければならない。
先週から今週にかけて各地で起こっている土石流災害などの豪雨被害。
昔から山津波に見舞われてきた灘クミンにとっても決してひとごとではない。
神戸はおよそ30年周期で大きな水害に見舞われてきた。前回の水害が昭和42年だから、
かれこれ40年以上。いつ六甲山が街に牙をむいてもおかしくない。
街の中にひっそりとたたずむ地蔵。
実は水と格闘してきた記憶を今に伝える生き証人でもある。
都賀川下流の大石南町でユーモラスな笑みを浮かべる「太郎八地蔵尊」は、1765年7月16日の
台風で都賀川上流から流されてきた。大石の太郎八という人が拾い上げ、この地に安置したので
太郎八地蔵と呼ばれるようになったと伝えられている。
流されてきた日を命日にしたのでここの地蔵盆は多地区の地蔵盆より1月以上早く行われる。
上野通にある観音寺という字名は、かつて観音堂があったことから名付けられた地名だが、
この観音堂の観音様は摩耶山中から大水で流れてきたものを安置したといわれている。
摩耶山の観音様も水害の被害者だったのだ。
そして昭和13年7月5日、一度牙を剥いた自然を止めることはできなかった。
六甲山からの山津波は大地を震撼させながら、一瞬のうちに家屋を飲み込んでいった。
忌まわしい阪神大水害は灘区だけで死者127人を出した。
荒れ狂った六甲川と杣谷川は都賀川で合流し、その被害は凄惨を極めた。
合流点の川幅、いや土石流の幅は200mにも及んだという。
濁流は水道筋を越え、旧灘警察と区役所を直撃、省線(現JR)を越え、浜手の町を襲った。
実家の近くに流れていた観音寺川には石や木に混じって、上流にあった湊川女学校(福住通)
の女学生も流れてきたという話も、夏になると近所の古老から聞かされた。
浜手の下河原通に「復興地蔵」と名付けられた地蔵尊がある。
阪神大水害からの復興を願って名付けられたという。
普段、地蔵名は表記されていないが、地蔵盆のときだけ「復興地蔵尊」と書かれた
提灯が揺れる。
他にも灘区内には水難にあったお地蔵さんが多数まつられている。
彼らのつぶやきに耳を澄ませてみよう。
灘区は水と戦ってきた街だということを教えてくれるはずだ。
彼らは記念碑や慰霊碑ではなく、街の生き証人なのだから。
[告知]
今年も8/23に地蔵盆を巡る探訪イベント「灘区地蔵盆ラリー」を開催します
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