前回のエントリー「六甲東映」に、多くの諸先輩方のコメントが寄せられた。
ありがとうございます。
灘区から最後の映画館が消えて4年がたった。
先日第4期が開講した灘大学。
1回目の講座は「水道筋学」だったのだが、学生から当時の映画館のエピソード
に関する発言もいくつかあった。
灘クミンの中の映画館はまだ健在なのだ。
僕にとって映画館は不思議な施設だった。
そんなに頻繁に行かなくとも、映画館が我が街にあるだけで、
自分の住んでいる街に、毎日カタカタと音を立ててまわる映写機があるだけで、
なんとなく安心だった。
それは毎日乗らずとも、摩耶山や六甲山で黙々と動き続けているケーブルカーや
ロープウェーに対する感情に近い。
そういった安心感は、それらを動かし続けている街の力強さ、いや街の余力から
来るものだったのかもしれない。
今の灘区は、むんむんとむせるような街の力強さは影を潜めた。
新しい街になって一見活気があるような六甲道でもそう思う。
いや、もう街の余力にたよる時代ではない。
ケーブルカーを動かしたいのなら、映画館が欲しいのなら、灘クミン自ら企画し運営する。
きっとそんなフェーズに入って来たのだと思う。
「昔は良かったね」だけではあまりにも寂しすぎる。
さて、実は六甲道には六甲東映の他にもう一軒映画館があった。
大阪万博あたりまであったそうだが、これに関しては全く記憶がない。
場所は駅の南側、桜口交差点北、現在の灘区役所あたり。
ちょうど御旅所の南、三和銀行があった場所に「六甲映画劇場」があった。
昭和35年10月20日の神戸新聞朝刊に掲載された映画案内を見てみると、
このとき上映されていたのは
・白子屋駒子
・がめつい奴
・爆発娘罷り通る
東宝系の三本立て。
てことは、ゴジラとかもやっていたのだろうか?
またここは「火事のあった映画館」として記憶している灘クミンも多い。
「六甲映画劇場な、小林旭の映画見てたら火事になってなぁ」
という証言もある。
ん?小林旭ってその当時日活では?
どうやら封切館ではなく二番館、三番館だったようである。
とにかく、またまた諸先輩方の記憶にたよるしかない。
六甲映画劇場体験のある方。
またそのたたずまい等を覚えていらっしゃる方。
コメントよろしくお願いいたします。
六甲映画劇場跡。現在はWeLv4番街1番館のビルがそびえる。
正面にあった八幡市場はパニエに。