3月いっぱいでナダタマとも関わりの深い市場の店が閉店しました。
閉店ネタを書くのは気が進まないし、あまりにも個人的なことなのですが、
少しだけ。
私事ですが、ナダタマ開設以前の今から12年ほど前に「naddism」というフリー
ペーパーを発行していました。
「naddism」はA4版3つ折りで不定期発行、灘のトンネル、灘の川などをナナメな
視点でを紹介する、ナダタマのチラシ版というところでしょうか。
この「naddism」は印刷物だったので、スポンサーによって支えられていました。
いや、スポンサーなんて大袈裟なものではなくむしろ「カンパ」と言った方がいいかも
しれません。そのスポンサーの一つが畑原東市場の豆腐屋さんのYさんでした。
彼は街のアニキ、いや師匠といった存在でした。
震災後、まだまだ深刻な問題が山積なのに、能天気な灘活動に精を出す筆者(naddist)に
「naddistちん、やりたいことやったらええねん、ガハハハハ」といいながら様々な場面で
背中を押してくれました。
そして
「なんかあったらオレに言うてこい」。
こういう人が街には必要なのです。
また、市場の人たちやいろんな灘人たちを紹介してくれたり。
「こいつがnaddistちんや、かわいがったって。ガハハハハ」
市場のこともいろいろと教えてくれたYさん。
「ウチの店の下には川が流れとるんや。貧乏川言うんや。ガハハハハ」
水道筋の居酒屋では、Yさんが作った豆腐を食べながら震災前の水道筋のことや市場のこと、
そしてこれからの灘区のことなどなど。時には喧嘩までしながらの濃密な時間。
そうそう、「Yさん、今年の忘年会は摩耶埠頭でやりましょうよ!」なんて、
寒風吹きすさぶ真冬の摩耶埠頭にこたつを持ち込み、鴨鍋を食べるというおバカな企画にも
「こんなとこで酒飲むなんて、お前はアホや!」とかいいつつ、つきあってくれたり。
やがてこのノリが「摩耶山ビアガーデン」や「摩耶山リュックサックマーケット」などに
つながっていくのです。
震災後、疲弊した灘の街でまちづくりに奔走するYさんは、まさに灘戦士。
夜遅くまでの会議、そして早朝からは本業の豆腐作り。
そしてとある年の春、ちょうど今頃。
都賀川の桜まつりの準備を終えたあと、Yさんは倒れました。
Yさんが倒れた後は奥さんが店を切り盛りし、やがておいしい総菜が評判になって
いきます。白和え、かぼちゃのたいたん、大根のたいたん、ひじき、オクラのごま和え…
さすがと思わせる白和えや卯の花など豆腐総菜は特に人気の逸品。
我が職場の市場ランチにもたびたび登場しました。
そろそろナダタマで紹介しないと、などと思っていた矢先の閉店でした。
「Yさんやったらなんて言うやろな」
今でもなにか新しいイベントをしたりするときいつも思うことです。
Yさんはまだ床に伏せたままですがそのうち店のシャッターが開いて、奥からあの
笑い声が聞こえてくるような気がします。いやきっと怒られるやろな。
「naddistちん、お前最近ナダタマ更新してへんやろ!ガハハハハ」
そんな日が来ることを楽しみにしています。