自転車やバイクを駅前に放置して撤去されてしまった場合、
上河原通1丁目のこの場所まで来なくてはならない。
「稗原保管所」という名称があるが、入り口と管理棟は上河原通にある。
線路沿いの細長い敷地が「保管所」に最適だったのだろうか。
線路沿いの町は、線路と共に暮さねばならない。
そんな線路と暮してきた町の歴史の欠片を見つけた。
将軍通から下川原の交差点に至る道が、線路の下をくぐり抜ける。
そのトンネルをまたぐように小さな白い歩道がかかっている。
歩道の真ん中、小さな少女の銅像がある。
普通、銅像には「やすらぎ」「なかよし」という無難なタイトルが付けられる場合と、
「フラワー66星人」「弧における多くの突端」とかいうワケの分からないタイトルが付けられる場合に分けられる。
ところがこの像には銘板もなく、何の説明もない。
ある意味、シュールで斬新なのかもしれないが、謎は深まるばかり。
銅像の周りをグルグル回るばかりでは怪しさ倍増なので、今度は線路の南に回る。
線路敷地の南側までが上河原通となっている。
そして、あの銅像から線路を挟んで南側の同じ場所には、
別の銅像が建っているではないか。銘板には、こんな詩が刻まれていた。
手をつなぐ
河原の街の榮ゆるを
やわに見守る
六甲の嶺
銅像の裏には「立体交差完成記念 昭和五十八年四月吉日 下河原商店会」とある。
コト真相を確かめるべく、たまたま近くにあった「ヘアーサロン・カイ」のご主人に尋ねてみたら、
こういうことのようだ。
昭和40年代の終わり頃、まだ線路に踏切があった頃の話だ。
線路をまたぐ8m幅の道路の両脇には、商店会の名にふさわしくたくさんの店があり、
人の行き来も多かったそうだ。
ところが、踏切をやめて立体交差にする計画が持ち上がり、
地元としては人の行き来を妨げないようになるべく平らにしてほしい、
ということで線路の高架化を求めたという。
だが高架化は実現せず、線路の下にトンネルを掘って道路を通すことになった。
8m幅の道路は現在のように拡幅されてしまったが、地元の要望ということで、
なるべく歩行者が行き来しやすいような歩道を取り付けつけることになった。
そして、立体交差と歩道の完成記念として銅像が建てられた。
銘板に刻まれた詩は、ヘアーサロン・カイの先代のご主人が作ったものだそうだ。
線路の北側にある上河原通の銅像も、同時に建てられたものだ。
しかし、線路で隔てられた町の「事情」から、
北側の像には何の説明も付けられていない。
歩道の脇に佇む少女の像は何も語らないけれど、
線路と道路によって北と南、東と西に分けられた町の歴史を、
一人で背負っているんじゃないかと思えてきた。
少女の像は、今日も遠く六甲の嶺を見つめている。
次回は「神ノ木通」の予定。