阪神高速と43号線は、見た目に大きく立ちはだかっているだけでなく、
その北と南では、「町の意志」のようなものも大きく違っているように思える。
阪急、山手幹線、JR、2号線、阪神、そして43号線と、
現在の灘区は南北の高低差に沿って縞状に区分できそうな気がする。
そのため、それぞれの標高ごとの雰囲気の違いを見つけ出そうとしてしまい、
山手〜海手という二分法をさらに細分化したくなる欲求にかられる。
灘区の最南部に区分される大石南町では、
山手に比べて微妙に空気が濃いような気もするし、
海に近い分だけ日差しも強いような気がする。
何よりも、43号線の南側を歩いていると、
あちこちで「何かを生産しよう」というような強い意志を感じる。
工場が多いという一言に尽きるのだが、
働いている人が「見える」という視覚的な効果が大きいのかもしれない。
お店で働く人は、通行人であると同時に客になる可能性もある私に対して、
にこやかに微笑みかけてくれる。
だから、お店が多い場所では、こちらもそういう笑顔を期待しながら歩くことになるし、
ちょっとでも無愛想な対応をされたら、身勝手に腹が立ってしまう。
ところが、工場で働く人は、通行人である私に対して安全確認の一瞥をくれるか、
もしくは危険人物でなさそうなら無視するというのが、
一種の作法というか、マナーのようなものになっているようだ。
こちらから声をかけない限り、ドライな雰囲気のまま歩くことになる。
大石南町には、沢の鶴があるし、ビン関連の工場もある。
灘製菓もあるし、おしぼりをクリーニングする工場もある。
鰻の山信や小さな駄菓子屋さんは、民家にまぎれて見落としそうになってしまうけれど、
周りの工場の佇まいだって、「ワレがワレが」と存在感をアピールすることなく、
必要最低限の看板を出してるだけだ。
つまり、お客になるかどうか分からない僕のような通行人に気を取られることなく、
日々の生産に精進すると、大石南町のような景色になるのだろうか。
かつて、大石や新在家には、船大工や酒樽職人、杜氏や蔵人が多く暮したという。
大石南町の質実剛健な風景に、飾らない仕事人の心意気を見て取る・・・
というのは言い過ぎだろうか。