ずいぶん前のことだが、神戸市立博物館に展示されている銅鐸(複製)の展示の説明に、「出土地:灘区桜ヶ丘町」とあるのを見つけて、ずいぶん驚いたのを覚えている。えらい近所に、どえらいものが埋まっとったんやなぁ・・・と。
14個の銅鐸と7本の銅戈。一カ所で大量に出土するのは、全国的にもそう多くないケースらしい。銅鐸は「音を鳴らす道具」であるという。ただし、どのような目的で作られたものなのか、なぜ突然途絶えてしまったのか、なぜ山中にまとめて埋められたのか等、未だに分かっていないことも多い。
今から二千年近く昔の灘人たちが残した桜ヶ丘銅鐸の謎、実に興味深いではないか。高羽の交差点から十善寺方面の尾根筋を見上げながら、弥生時代の灘あたりを妄想してみるのも悪くない。
ところで桜ヶ丘という地名はどこから来たのか。最近流行りの「●●ヶ丘」「●●台」的なニュータウン地名とは格が違いまっせ・・・と思ったら、「昭和31年2月、石屋川上流部の申(さる)新田を開発して宅地とした際に付けられた地名」だという。ニュータウン地名の先がけ、ということのようだ。
で、この桜ヶ丘地区の開発が着手されて工事を進める途中で見つかったのが、国宝となった銅鐸や銅戈なのだ。つまり、桜ヶ丘の住宅開発がなければ、銅鐸たちはずっと土の中に眠ったままだったかもしれない、というわけだ。
だからといって、開発を手放しで賛美するわけにもいかない。親和女子高等学校の正門前を通り過ぎて、尾根沿いの道を上れば、石屋川を挟む谷間で巨大な開発プロジェクトが進行中だということが分かる。
震災後、長期にわたって係争が続いたグランドパレス高羽の姿はもう見あたらない。その変わりに、山腹の岩肌が削り取られてカフェオレ色のひな壇が誕生しつつある。ここも、他と変わらぬマンション群に生まれ変わるのだろうか。
すぐ東側に下れば、東灘区だ。石屋川の東にある灘区が妙に愛しくなる。
秋も深まりつつある。
銅鐸の時代も21世紀のマンションの街でも、ススキがそよぐ姿は変わらない・・・だろうか。