おかげさまで、ナダタマ「灘の旅人」も第25話まで辿り着いた。
あいうえお順で進んでいるが、まだ「か」で始まる町名をウロウロしてる。
まだまだ長い旅になりそうなことは容易に想像できるが、
この旅を邪魔する敵が現れた。
お気づきの方も多いかもしれないが、
最近はspamコメントの波状攻撃にウンザリしている。
自分のサボり癖と闘うのは、相手が自分なだけに何とかなりそうな気がするけれど、
spamをばらまくのは機械だから、妙な徒労感だけが残る。
こまめに削除しているものの、
不快なコメントはサラリと無視していただければと思う。
光ファイバーだの無線LANだのという世界とは無縁の自宅PCは、
ダイヤルアップ接続でインターネットにつながっている。
そこから覗くweb世界は思いの外狭く、時間がかかる。
ナダタマのトップページを表示するのに1分以上かかるし、
そんな環境でspamを削除するのは体力勝負の我慢比べみたいなものだ。
これは何とかせねばならないと、雨雲を忘れたような梅雨入り後の青空の下、
神頼みをすることにした。
すぐ近所の八幡神社・・・ではなく、
少し足を伸ばして春日神社に向かう。
そのあたりはオトナの事情ということで。
神前町と言えば、すぐにあの大楠が思い浮かぶ。
六甲小学校の南西、巨大な楠に包まれた春日神社。
今でこそ周りに建物が建ち並んでいるが、
まだ田畑や平屋の民家しかなかった時代には、
今では想像も付かないほど存在感だったはずだ。
目の前の看板には「樹齢等には諸説あり明らかではない」と書かれている。
樹齢は500年とも1000年とも言われているようだが、
人間のモノサシで何年と数えるのが申し訳ないほど神々しいではないか。
犬や猫の年齢を「人間で言うと何歳」と喩えるのは無意味だと
日頃から思っているが、こういう大樹を相手に何年と数勘定をするは、
なんだか申し訳ないような気分になってくる。
大樹を支える支柱も新たに加わり、
夏の日差しの下で心地よい木陰が守られている。
もし、この樹の声を聴くことができたら、大楠は何を喋るだろうか。
境内は静かだけれども、樹形から会話を想像してみると、
案外賑やに灘話で盛り上がれるような気になってくる。
ここは、灘でも屈指のスピリチュアルでヒーリングな場所ではないだろうか。
大楠を見つめていれば、
忌まわしいspamのことなんかすっかり忘れてしまいそうだ。
さて。大楠の木陰を出て、暑い日差しの中を山手幹線に出れば、
「神前復興(福向)の道」という真新しい道しるべが目に付く。
由来はよく分からないが、復興を「福幸」や「福向」と
書き表したくなる感覚は何となく分かる。
この感覚を、どうやって未来の灘人たちに引き継いでいったらいいだろう。
ところで、神前町あたりの山手幹線は拡幅工事も進み、
歩道でもないような車道でもないような妙な空間が取り残されている。
この拡幅工事で失われた灘の名店も数多いと聞く。
少し閑散とした山幹沿いの歩道を歩けば、
神前の大楠のてっぺんあたりが見え隠れする。
変わるものと変わらないもの、今と昔。
そんな時代の流れにクラクラしながら家に帰った。
ふとパソコンを前にしたとき、神頼みを忘れていたことに気がついた。。。
spamと闘う日々はしばらく続きそうだ。