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2007年11月23日(金曜日)

遊具

カテゴリー: - WACK! @ 23時46分43秒

気がつけば丸山公園から登り棒の遊具が無くなっていた。
木のピラミッドと長い方の滑り台は無くなって久しい。
代わりにやって来たのは蛇のトンネルチューブを持つ複合遊具だった。
子どもたちにとって丸山公園の代名詞ともなる人気の蛇だが、
僕はこれを見るたび未だにため息をつく。

僕が学童を始めた頃の丸山公園では、ピラミッド鬼ごっこが一番の楽しみだった。
如何に身を隠し、如何に身をこなし、如何に華麗に逃げるか。
常に考え、常に動き、常に緊張感に満たされていた。
あの狭い空間では大人の頭脳は有利に、大きい体は不利に作用した。
大人と子どもが遊び合える貴重な遊具だった。

僕はニュータウン育ちで、小学校の創立10周年を経験している世代だ。
ウチの小学校のウリは、神戸市内で一二を争う広さの校庭と、
木でできた背の高いマンモス遊具だった。
丸太の土留めで囲まれた「らくだ山」の上に立つマンモスは
スリルという快感と身のこなし方を教えてくれた。
授業終了のチャイムはヨーイドンの合図。
みんなで一斉に飛び登るとギシギシ音を立ててゆらゆら揺れる。
綱だけでできた一本橋は遊具のてっぺんにかかっている。
手に汗握り、必死で渡るのは鬼ごっこをしているから。
早く行け!と急かされて滑ると途中でおしりが浮いてしまう二段の滑り台。
雨上がりに綱や木は濡れて気持ち悪かったが、それも貴重な感覚。
もちろん晴れの日には優しい印象の木製遊具であった。

思い起こせば、家の周りの公園も、その多くが木でできた遊具だった。
当時の神戸市はニュータウンで新しい生活のあり方を提案したかったのだろう。
徒歩5分の圏内に公園を配置し、緑と木にあふれた空間は暖かみを演出する。

そんなことなどお構いなしに子どもたちは自由に遊ぶ。
丸太の塀を使って高鬼をしたり、かくれんぼをしたり。
大人が想定した遊びをしないのが子どもなんだと思う。

そんな楽しさの一方で、確かに危険な事もあった。
滑り台の真ん中からおしりどころか体が浮いて落ちてしまった子がいた。
そげが指に刺さるなんて日常茶飯事。
手入れが十分にされていなかった丸太の土留めは根本で腐り、
僕の体重を支えられず折れてしまった。
おかげさまで頭を強く打ち、「目から星が出る」を実体験できた。

この「ニュータウンでの経験と反省」を神戸市は活かして
今、学校の遊具や公園に「改良」の手を入れているのだろう。
我が母校からマンモスは去り、どこでも見られる「総合遊具」が鎮座している。
公園の木の塀はすべて取り去られ、かくれんぼの思い出は記憶でしかたどれない。

僕のニュータウンでの20年が、目の前の丸山公園と繋がって見える。
経験と反省ってなんだろう。
改良ってどうすることなんだろう。

安全が何より大事であることに異論は無い。
しかし、安全とトレードオフになっているものを
我々大人は見失ってはいけないと思う。

子どもの安全を守ることを本気で考えるなら、
子どもを危険から遠ざけるだけでは十分ではないのではないか。
危険から身を守る方法を身につける、気づけるようになる、
そのための関わりを大人が惜しまない努力も同時に必要だろう。

そして、あの遊具たちがくれた「自由」という遊び。
大人の想定を超えたところで楽しむ子どもたち。
その発想を豊かに広げてくれるようなもの、遊び方を固定しないものを
公園には用意してほしいと願うのであった。


2007年11月2日(金曜日)

灘っ子ノオト

カテゴリー: - WACK! @ 12時00分00秒

ソプラノリコーダー

もうすぐ水道筋に音が溢れる日がやってくる。
灘っ子たちの周りにも音が溢れている。

好きだという気持ちの表れ方には二種類ある。
それが欲しくて欲しくて仕方がない、呑み込むような表れ方と、
気が付けば心を満たしていて、じわじわ広がっていく表れ方と。

部屋の隅で、前触れ無く歌が始まる。
誰かが歌の信号を発信すると、
その輪は広がり干渉し、大合唱となる。
同じ波長を持つ同級生たちのみ受信できる信号。
誰かがきっと受信してくれる、そう思うから発信するのだろう。

子どもたちの心は、今、音で満たされている。
それに気付くではなく、しかし共鳴できる相手があることを確信し、
心に相互作用しているのである。
不可視なラインが耳を通して繋がって見える。

これが「好き」なのであり、
これを通して繋がれるのが「仲間」なのだと気付くのは、
子どもたちには難しいかもしれない。
無意識に心を満たし、使っている便利なツール。
これを認識し、能動的に使えるようになればどうだろうか。
子どもたちが好きを選択し、広がる輪を広げる輪に変えることができる。

音って楽しい。嬉しい。

心の底からそう思える子どもたちが増えて欲しい。
音に携わってきた一人として、そう思う。
教師も親もそして僕のような子どもに関わる人間も、
子どもたちに教えるではなく、気づかせるではなく、
子どもたち自身が気づけるような環境を作ってやらなければ。

そんな事を考えた美野丘小の児童音楽会だった。

パクりな題で申し訳ないが、灘に溢るる音に敬意を表して。
みんな、よい音楽会本番を。


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