底抜け!痛快!!船成金の館(66)(09/24 00:00) Page:1
Author : dr-franky
Category: まちなみ・建築

 話は、鈴木商店の命運が尽きたその年の4月にさかのぼる。

 幸次郎は、大戦終結後の欧州の経済情勢の見極めもあり、
造船所の汽函の買付のためフランスやイギリスを歴訪した
後に横浜へ戻った。しかし、台湾銀行に続いて川崎造船所の
メーンバンク十五銀行も恐慌のあおりで経営危機に直面し、
三週間の休業に入ったのだ。

 十五銀行は皇族、華族関係の取引が多く「華族銀行」と
呼ばれるほどだったが,一方、幸次郎の兄・巌が頭取を務
めていたこともあってか、川崎造船所も約四千万円の融資
を受けていた。現在の貨幣価値に換算すると八百億円とも
いわれる規模である。
 その十五銀行も、鈴木・台銀ラインが「吹っ飛んだ」影
響で、取り付け騒ぎに飲み込まれたわけである。
 休業で、まっ先に影響がでたのは川崎造船所だ。職工達
の賃金を支払うあてがないのだ。事務方は鳩首額を寄せ合
い、遊休資産の売却を進めたが、運転資金の足しにはなる
という程度。
 川崎社内の変調は、すぐさま街角に現れた。
 まず、職工達が新開地の盛り場へ足を向けなくなった。
 工場の正門を出た人波は、まっすぐ家路を目指す。
 新開地の小屋はがらがら、カフェーの女給たちも手持
無沙汰で、閑古鳥が鳴いた。 
 次第に、下請け業者にもさらに仕事が発注されなくなっ
てきた。建築もそうだが源流をさかのぼれば同じ造船も
総合的、システマティックに作られる工業製品の集大成
であるから、膨大な下請け業者が干上がれば神戸を中心
とした経済圏は大打撃を蒙ることになる。

まず神戸市役所が動いた。黒瀬市長が、首相以下の政府
要人に川崎造船所の救済を要請する内容の電報を送り、ま
た直接面会を求めて上京した。
 これに商業会議所も追随する形で、鹿島房次郎会頭ら幹
部が関係大臣らに陳情を行うため東京行の列車に飛び乗っ
た。人員整理を行わず危機を乗り越えたい、という幸次郎
ら川崎造船所の経営陣の思いを知っているからこそ、の行
動であっただろう。        (この項、つづく)            


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