底抜け!痛快!!船成金の館(67)(10/31 23:35) Page:1
Author : dr-franky
Category: まちなみ・建築

 川崎造船所は、創業者の川崎正蔵が薩摩出身であったこともあ
り、同じ薩州閥である帝国海軍とともに伸びてきた経緯がある。
川崎の危機は海軍の危機であるとして、まずは政府による川崎造
船所への融資策が国会の審議に付された。
 企業の再建に政府の融資を頼むのはよくあることだが、その国
会の審議で、融資先企業のネガティブな情報が明るみに出るのも、
鈴木商店でつぶさに見てきたように、また然りである。川崎の救
済策、さらには川崎の経営状況そのものも野党勢力に徹底的に追
及される運命にあった。

 野党側は、まず30数年にわたって社長の座にある幸次郎の責を
問うた。
 創業者の川崎正蔵から、幸次郎が造船所の経営を任されたのは
明治30年のこと。折しも社運をかけた旧湊川河口の砂州にコンク
リート造ドライドックを建設する一大プロジェクトが進行してい
る時期だった。

 さらに、後に「榛名」と命名される巨大戦艦建造のため、今度
は36本の支柱で支えられたコレマタ巨大な鉄の檻の如きガントリ
ークレーンも築造し、第1次世界大戦の需要増にも乗った。

 幸次郎自身も、ドイツの最新鋭の潜水艦技術を入手する密命を
帯びて、大戦後に欧州に長期出張し、ついにはUボートの設計図
面を入手、更には独逸クルップ社のトップ技師らをジャワ経由で
日本に招き、自社の技術陣に設計、製造の「肝」を直に学ぶ機会
を作り、帝国海軍の潜水艦の水準向上に大きく貢献をした。

 しかし、最初は潜水艦技術のヘッドハンティング・スパイのカ
モフラージュのため始めた美術品収集が、美術館建設を構想する
程までの規模に膨れ上がり、しかも大戦終結の時期を読み誤った
幸次郎は、ストックボートの余剰在庫で造船所の負債を増やす結
果となってしまった。

 野党はこうしたあたりも念頭に、「一私企業に公金を投入する
のは憲法違反だ」と追及をした。
また折悪く、大倉組から川崎造船所に未払い金の売掛金の支払
いを求める訴訟が起こされた。政府内でも川崎造船所救済の方針
に反対する閣僚まで現れる始末。

 昭和2年7月、大蔵省は川崎造船所救済のための法案の廃案を発
表。巨船川崎は暗礁に乗り上げたかに見えた。

 しかし、ここでも動いたのは帝国海軍であった。(この項つづく) 


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