底抜け!痛快!!船成金の館(73)(07/19 17:48) Page:1
Author : dr-franky
Category: まちなみ・建築

 昭和6年のある日、銀次郎は東京を発って西へ向かう列車の車上に
あった。
 草津のあたりを過ぎた時分に銀次郎は浅い眠りから覚めた。
  
 今と違い、缶飲料などない時代である。
 銀次郎は扇子を開いて煽ぎながら、なんとなく車窓を眺めていた。
 
 大阪駅を出てしばらくすると、線路は長い長い直線に差し掛かる。
 松林が見えてくる。武庫川である。
 「川を越えるたびに神戸へ近づく」、いつも東京からの帰りに、
銀次郎は当たり前だが、こう心の中で思いながら列車が神戸へ滑り
込むのを心待ちにするのであった。
 
 精道村や本山、住吉のなだらかな斜面地はあっという間に彼方に
過ぎ、やがてひと際高い峰が、近づいて来るように見える。
 「摩耶山が見えた」。もう我が家に戻ってきたかのような安堵感を
銀次郎は覚えた。

 列車の左手にはさっきから朝陽を反射した大阪湾が広がっている。
 やがて黒々と煙を吐く高煙突が見始める。脇浜の製鉄工場群だ。
 そうしたなか、一瞬、白い帯が布引から省線の線路へ向かっている
のが見える。
 「おお、かなり出来上がっておるなぁ」。銀次郎は思わずうなった。
 これは、三宮へ乗り入れる阪神電鉄の地下軌道の工事で出た残土を
使った新生田川の埋め立て工事の現場なのである。

 銀次郎が衆議院議員に当選した昭和5年(1930)は、まだまだ世界
恐慌の影が神戸の町に暗い影を落としていた時期であった。
 神戸市は失業対策として、市独自に、また場合によっては国庫補助
を得て、河川改修事業や道路改修の事業を起こした。

 新生田川の暗渠化は、直接は失業者対策ではなかった。すべからく
神戸の川は普段は水が少ししか流れておらず、長じて町のごみ捨て場
の様相を呈する始末だった。
 そこで、新生田川に蓋をして、旧湊川のように河川敷の上をを市街
地にすればよいという発想で、河川トンネルと緑地の整備が行われる
ことになったのだ。

 この暗渠化が後の銀次郎を始めとする神戸の人々を悩ませる原因の
一つとなるのだが、そんなことは夢にも思わない銀次郎は、定刻通り
列車が神戸駅に滑り込むと、改札口の出迎えの市職員を従え、足早に
地方裁判所東隣の市役所庁舎へ向かった。 (この項つづく)   


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