底抜け!痛快!!船成金の館(61)(03/05 00:11) Page:1
Author : dr-franky
Category: まちなみ・建築

うかうかしているうちに御雛祭りも済んでしまった。1ヶ月更新のペースを
挙げて生きたい今日この頃である。

1926年、大正が終わりを告げ元号が昭和に改まった。
銀次郎は事業の整理を進めながらも、市会議員、あるいは海運業界の重鎮
として多忙な日々を過ごしていた。
 その銀次郎にとって気がかりなことがあった。鈴木商店の経営問題である。

 大正7年に焼き討ちに遭った鈴木商店は、その後も海岸通に本社事務所を
移転させて、三国間貿易などを盛んに展開するなど、ロンドン駐在の高畑誠
一(神戸高等商業学校卒)ら学卒者の活躍で三井物産に比肩する総合商社
の様相を呈していた。
 だが、そうした商社活動での「あがり」は、部類の事業狂・金子直吉が、「国
益のため」と手をつけた「ベンチャー」産業の資金に充てられた。
 鈴木商店の取扱商品である樟脳を原料とするセルロイド(大日本セルロイド)
に投資し、資金難で経営に行き詰まった小林製鋼所を買収して神戸製鋼所と
し、さらには第1次大戦の船不足を見越して、播磨造船所の創設にも参画する。
 一方で製糖事業やビール事業を門司で起業する・・・。「煙突男」の異名をとっ
た金子の勢いはとどまるところを知らなかった。
 しかし、事業に投資しても、新技術の国産化などの「金喰い虫」。ベンチャー
だけに収益を上げるまでに至らないことが多いのも事実。それは資金の固定化
を意味していた。
 いっぽう、金子は、「銀行は店を占める日曜日にも利息をつける」と金融機関
をけなしていた。「お家さん(鈴木よね)のため、お国のため」という金子の「滅私
奉公」の信念から、鈴木商店には休日はなかった。
 そんな金子からすれば、銀行という存在は理解しがたいものがあったらしい。
 しかし、総合商社と化学、製鉄、食品という部門を抱える鈴木商店は、いま
だ合資会社。高畑たち学卒者は、株式公開による資金調達など経営の近代
化を、支配人の西川政蔵を通じて金子に迫るが、自分の戦略の手の内を「暴
露」する結果となる株式会社化の構想を、金子は一蹴した。
 しかし、大戦後の不況の中で、さしもの鈴木商店の勢いにも陰りが見えてき
た。商社部門の収益が減少傾向に転じる至り鈴木商店の資金繰りは次第に
苦しくなっていたのだ。
 しかも、海外に散る学卒者と、金子をつないでいた支配人・西川政蔵が心労
がたたって急逝してしまう。金子に直言できる人材が本店からいなくなったのも
事態を悪くさせた。                  (この項、つづく)


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