底抜け!痛快!!船成金の館(62)(04/12 22:07) Page:1
Author : dr-franky
Category: まちなみ・建築

当時、金子は、台湾長官以来の付き合いである後藤新平の伝を通じて、台
湾銀行から鈴木商店への融資を引き出していたが、その比重は増していった。
しかし台湾銀行の資本金の6倍強にあたる2億6千万円が対鈴木関係の融資
という状況にいたって、流石の台湾銀行も関係の見直しを考えなければならな
かった。
 台湾銀行は、高畑や永井ら鈴木の神戸高商卒のグループに近い社員を神戸
支店へ「鈴木の監視役」として送り込みながら、グループ企業を統括する持
株会社創設などを柱とする要求を金子に再三にわたって申し入れた。
 さしもの鈴木も、台湾銀行への利子の支払いが1日数万円−今日の価値に
直せば数千万円から1億円−にも達すれば、にっちもさっちも行かない。台湾
銀行の申し入れを、直吉は呑んだ。
 しかし、持ち株会社制の導入後も、結局は金利の支払いに借金を重ねる、
悪循環にはまり込んだ鈴木と、鈴木をつぶすわけにも行かず、貸し出しを続け
る台銀、という図式は変えることは出来なかった。
 
 台銀の預金残高の約6倍の貸出残高5億4千万円の7割が鈴木関係の融資、とい
う異常事態。台銀は、他銀行からの短期融資(コール)で固定化した鈴木関係
の貸付金の穴埋めをするという綱渡りを演じていた。しかし、大正15年11月に、
鈴木系の日本製粉と、日清製粉の合併協議がご破算になったことにより、鈴木
とメインバンクの台湾銀行の経営状況に対する世間の見る目はいっそう厳しく
なった。
 経営難の日本製粉を、日清側が拒否した格好だが、日粉を存続させるため、
金子はさらに日本銀行、大蔵省詣を重ね追加融資を求めた。
 大正天皇が病の床に伏せている、という当時の情勢も味方した。日本製粉の
ための1千5百万円の融資が認められた。
 だがこれは、例えて言えば、多臓器不全に陥って瀕死の状態の鈴木に、人工
心肺が取り付けられた、という程度のことであった。
 
 破綻は、刻一刻と迫りつつあった。           (この項つづく) 


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