底抜け!痛快!!船成金の館(64)(08/09 19:25) Page:1
Author : dr-franky
Category: まちなみ・建築

 どこかの元アイドル以上に「失踪状態」が続いて申し訳ありません
でした。
 スランプ気味へ持って来て(何せ西宮北口でねん挫はやらかすし)、
多忙気味、気づくと丸2か月以上更新が飛んでいたことに、改めて落胆。
 
 改めてがんばります。

 金子直吉が、東京ステーションホテルを根城に、政財界の要人を訪ね
まわって、懸命に震災手形損失補償公債法案の成立と、台湾銀行への融資
続行を懇願して回る日々が続いていた昭和2年(1927)3月、片岡大臣の国会
答弁中の失言で、東京渡辺銀行などの中小金融機関での取り付け騒ぎも起き
るなか、念願の法案が成立したが、附帯で第三者も構成員に加えた審査委員
会を設置することが条件となったことで、「いよいよ台湾銀行は危ない」と
の認識が、広く世間に行き渡ることとなってしまったのは皮肉であった。

 まっ先に、台湾銀行に短期融資をしていた三井銀行が、コールの引き上げを
台銀に通告した。その動きは瞬く間に他行にも波及して行った。
 資金繰りの源を立たれた形の台湾銀行に残された道は唯一つ。最大の貸付先
である鈴木に対する融資を打ち切ることに他ならなかった。

 3月26日、台湾銀行の幹部は、鈴木商店への融資を打ち切る旨、呼び寄せ
た鈴木商店の高畑誠一、鈴木岩次郎、永井幸太郎に通告した。
 万事休す。しかし高畑にも永井にも、来るべきものがきただけ、という思い
もあってか、却って無感動であった、という。
 金子は、鈴木の幹部社員に、台銀融資打ち切りについて緘口令を敷いた。た
とえ政府筋から、情報が漏れるのは時間の問題であることが分かっていたに
せよ。

 3月31日付けで、鈴木商店の経営陣が交代することが新聞で報じられ、別の
新聞が翌4月1日に、台湾銀行が追加融資を拒否したため、鈴木商店の経営が
行き詰っていることを伝えた。
 株式市場は、売り一色に染め上げられた。兵庫・本町に本店を置く第六十五
銀行では取り付け騒ぎが起き、混乱は続いた。

 ここに至って、事態を重くみた政府は、いわば最後の切り札である台湾銀行
への緊急融資策を枢密院に緊急提出したが、三井財閥と関係が深い、若槻内閣
の反対勢力・伊東巳代治(帝国憲法の起案に関与)が立ちまわって、「効き目
のない無駄金」と一蹴する形で、結果として枢密院は多数でこの提案を否決し
てしまった。
 面目丸潰れの若槻礼次郎は内閣総辞職に追い込まれた。 
 4月18日、台湾銀行は休店に追い込まれた。クラッシュ、恐慌状況は確定的と
なった。

よく、片岡直温の失言によって引き起こされた東京渡邊銀行の取り付け騒ぎ
をきっかけに昭和恐慌は始まったと、学校は歴史の時間に教えている。しかし、
正しくは、台湾銀行の、ひいては鈴木商店の救済への道を、愚かな政争で閉
ざしたことが、昭和恐慌の直接の原因となった、といわなくてはならないほど、
そのインパクトはあまりにも大きかった。

 金子は鈴木の中枢を追われた。           (この項つづく)


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