相変わらず、農閑期には学校に通っていた善治郎だったが、学校から帰ると山へ薪を集めに出かけるのも彼の日課だった。囲炉裏端で煮炊き、食事し語らう、そうした場面に燃料として薪は必要不可欠であり、善治郎以外の子供たちも山に分け入っていった。
だが、薪を求めて山を歩くうちに、善治郎は新たな「商材」に着目していた。
果実を売りに歩くうち、善治郎は、善光寺の門前町である長野の町で、仏壇に備える花の需要が高いことを感じ取っていた。薪を集める山には多くの草花が咲き誇っていた。「これを売って歩かない手は無いぞ。」善治郎は考え、そして実行に移した。
善治郎の読みはあたった。辻々で行商して回る善治郎の草花は売れに売れた。そして少しずつ蓄えも出来始めた。
草花の行商にはげむ善治郎の脳裏に、或る時から別の気になる商品が占めるようになった。
魚である。
山国の信州でも、安茂里や長野からは、日本海は比較的近いところにある。しかし、水産物はかまぼこや干物でしか流通をしていなかった。その背景には、当時は冷凍・低温の流通技術がなかったことも一因としてあったのはもちろんだが、もうひとつは産地から消費地に至るまでの複雑な流通過程も生魚の流通を阻む原因の一つだった。とりわけ、かまぼこは、この頃の信濃地方では「猫またぎ」と揶揄されていた。本来は猫の好物であるはずのかまぼこですら、古くて敬遠されてしまう、という有様だったのだ。
善治郎は考えた。果物や草花と同じで、自分で海まで買出しに行けば、新鮮な魚を長野の町の人に食べてもらえるではないか、と。
草花の行商でたくわえた原資で、善治郎は越中へ水産物の仕入れに出かけることにした。