恐慌のボディブローが効いてきた、昭和2年の暮。
銀次郎は栄町通を通りかかった。かつての鈴木商店本店であった3丁目の
町屋の近くで、金子を見掛けた。
「金子さん」銀次郎が声をかけた。憔悴し切った金子の姿は、自身も事業
を整理している立場にある銀次郎から観ても、あまりに痛々しかった。
「勝田君」、じっと金子は銀次郎を見やっていた。
銀次郎は、自分の事務所へ金子を招き入れた。
「敗残の将じゃ」。
金子にとっては、お家さんのため尽すための手足である、手塩をかけた数々
の事業を、油揚げをさらって行く鳶のように三井や三菱の大財閥にもぎ取られ
ていくのを、じっと耐えるよりほかない、という風であった。
「時々、債権の整理をやっているあの事務所へ顔を出す。妻は里へ帰した。
今はその日暮らしみたいなものだ」。須磨・一の谷の異人館を金子は追い出
されていた。鈴木商店の財産であったため、台湾銀行に差し押さえを食った
のだ。
「しかし、今は債権者とひざ詰めで話し合っている。鈴木には何らやまし
いところはない、と」。分厚いレンズの向こうの斜視気味のまなざしは鋭か
った。ようは資金の手当てさえできれば、事業は継続できたわけである。
金子の心中を察して、銀次郎は黙って見守ることしかできなかった。
そんな銀次郎には、もうひとつ気がかりな企業があった。
松方幸次郎率いる川崎造船所である。
銀次郎は、大阪鉄工所に発注した大型船を売り逃げしなかったことで事業を
傾けたが、川崎も幸次郎のアイデアである標準船・ストックボートを作り続け、
挙句、系列の川崎汽船や、金子、銀次郎たち船主たちと国際汽船を設立して、
売れ残りのストックボートを運用する手立てをとるが、根本的な解決にはつな
がらない。
川崎という巨船が、未曾有の「恐慌」という超大型台風に結果的に突っ込む
形勢となっていた。しかも関連の下請け工場など、鈴木商店以上に神戸経済と
密接に結びつく企業であるだけに、銀次郎には、その動向が気になって仕方が
なかった。 (この項、つづく)