底抜け!痛快!!船成金の館(74)(12/19 22:39) Page:1
Author : dr-franky
Category: まちなみ・建築

 昭和6年のある日、銀次郎は某所で中井一夫と向き合っていた。
 銀次郎は、翌7年(1932)2月の総選挙に出馬しない意向を固めていた。
 「中井さん、やはり代議士というのは政治に専念できる環境に居る者が
  ふさわしい。整理中の会社を3つも抱える私には、荷が重い」。
 銀次郎は中井に次回総選挙の立候補を促したのだ。
 前の選挙で、ある意味、自分の我儘を通す形で銀次郎を担ぎ出した中井
に、銀次郎の要請を断る理由はなかった。
 
 昭和7年(1932)2月の、総選挙で民政党候補で神戸市からは砂田重政と
ともに中井一夫が2回目の当選を果たした。

 その頃、神戸市議会は国政における民政・政友両党がしのぎを削る情勢
を反映して民政党系の公政会、政友会系の新政会が二大派閥であった。
 おりしも黒瀬弘志市政も2期目の終盤に差し掛かりつつあった。生糸検
査所の移転・拡張、そして農林省への移管を始め、神有電鉄の建設や阪神
電鉄の地下延伸で発生する残土を用いた新湊川や新生田川改修など経済対
策としての公共事業の展開・・・、財政的に厳しい中で神戸市政を舵取り
してきた内務官僚出身の黒瀬の手腕は堅実であった。
 だが、謂わば「市長与党」である公政会では、黒瀬の3期目については
「白紙」という空気であった。後継の市長は誰が適任か、水面下での模索
が始まりつつあった。
 
そうした中、銀次郎は勝田汽船を始めとする自身の関係する3つの会社
の整理を進めていた。
 総勢50人程の陣容だった勝田汽船も、今や木本幸吉ほか1名の2人が残っ
て銀行団と折衝を重ねていた。木本らの粘り強い交渉で大口債権者だった
在阪某有力銀行が20万円の債務を5千円まで棒引きしようと申し出てくれた。
「その代り」、担当者は木本に条件を出した。
「勝田社長に、いちど当社へ出向いてもらって頭を下げてもらいたい」。

 それから暫く後、高麗橋の石造りのビルの一室。薄暗い応接室の固い椅
子で銀次郎は、融資担当の重役と向かい合っていた。
 銀次郎は深々と頭を下げ、自身の経営の失敗から迷惑をかけたことへの
謝罪をした。重役は「勝田さん、こういっちゃあ何だが、わたしども恐慌
以降、経営に難渋している。なんとか一万円まで手当いただけませんかね」。

 西日の差す旧居留地のビルの一隅。勝田汽船の狭い事務室に銀次郎が戻
ってきた。
 「社長、いかがでしたか」。木本が机から立ち上がって出迎えた。
 「木本君」、銀次郎はぶっきらぼうに言った「一万円で話を付けてきた」。
 木本の顔から血の気が失せた。「社長、何いうてはりますねや。そんな
余裕はあらしません」。銀次郎は額に青筋を立てて、今まで辛抱してもら
った見返りだ、何とかしろ、と怒鳴る。その場を何とか押さえ銀次郎を送
り出した木本は、すぐさま三ノ宮駅へ走り大阪行きの汽車に飛び乗った。
再び銀行側に実情を訴えて、銀次郎の「空手形」を「回収」するために・・・。

 こうしたことを繰り返して、木本たちは銀次郎の3つの会社の債務を
へらしていったのだった。           (この項つづく)


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