底抜け!痛快!!船成金の館(75)(12/21 13:00) Page:1
Author : dr-franky
Category: まちなみ・建築

 昭和8年(1933)5月、銀次郎は2度目となる神戸市会議長に就任した。

 黒瀬弘志市長の任期は3ヶ月後に迫っていた。
 梅雨入りの頃には、にわかに黒瀬市長の後継者調整の動きが活発となり
始めていた。
 新政会は、早くから銀次郎を次期市長候補に、と見込んでいた。古株の
議員が断続的に、銀次郎と面談して市長候補の受容を要請した。だが、銀
次郎は笑いながら「わしは市長をやるほど耄碌はしとらんぞ」と、やり過
ごしていた。

 戦前期の市長の選考は、公選制では無かった。内務大臣の命令を受けて
市会で市長候補を3名選出、中央で裁可を得るという中央集権的色彩の強
い手続きだったものが、大正15年(1926)の制度改正で市会での選出で決
めるよう改められた。

 銀次郎が市長候補を受諾しなかった大きな理由は、事業の整理がまだ道
半ばだったことだ。
 市会議員は企業の役員など兼業が認められていたが、市長となるとすべ
ての役職を返上しなければならなかった。
 木本たちの奮闘があるとはいえ、現在の金額で数十億円単位の債務を抱
える銀次郎にとっては、「今は身動きが取れない」というのが本音だった。

 市会副議長の前田二一六、新政会古参の佃良一らが引き続き説得にあた
ったが銀次郎は首を縦には振らなかった。

 8月16日、任期満了に伴い黒瀬弘志は市長を辞職した。黒瀬前市長を支持
してきた公政会は候補者を擁立するには至らなかった。
 当面、市長職務は梅津芳三助役が代行することとなった。

 前田らは政友会の砂田重政代議士にも、側面支援を要請した。銀次郎と
同じ愛媛出身で、弁護士として海運業界とつながりが深かった砂田は快諾
すと勝田系企業の債権者である銀行との交渉に乗り出した。

 10月になって新政会は正式に銀次郎を次期市長候補に推薦することを決
定した。市会の市長選考委員会も無産政党所属の委員を除いて、というこ
とは事実上、圧倒的賛成多数で銀次郎を推薦する決議をしても、銀次郎は
態度を変えなかった。

摩耶を始め六甲の山並みがすっかり秋色に染まった頃だった。
 市会の情勢を見守ってきた、黒瀬前市長を支持する公政会は、候補者を
立てていなかったが、この期に及んで正式に黒瀬前市長の三選反対を表明
した。事実上の銀次郎支持のサインだった。

 銀次郎は決然と市長への立候補を表明した。

 歳の瀬が迫った十二月二十日、臨時の市会が招集された。議題は第八代
神戸市長の選挙である。

 冒頭、無産政党の2議員が議場から退席した。

 続いて信任の投票が始まった。
 結果、勝田銀次郎を信任五十六、白票一。事実上、満場一致で銀次郎
が市長に選出されたのだった。実に第四代鹿島房次郎いらい、20年ぶり
のことであった。

 この年、銀次郎が情熱を傾けた青谷御殿は、ひっそりと天理教に譲渡
されていた。債権者の金融機関と建物を活かしつづけるということで、
合意に達したのだった。主が不在であった館は、やや趣を変えて第二の
人生を歩もうとしていた。

 十二月二十一日午後。銀次郎は第一礼装で神戸市役所に登庁した。
                       (この項つづく)
<画像:市長時代の勝田銀次郎(昭和10年頃)>


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