時は少しさかのぼって、去年(大正四年)の年の瀬近くのことだった。
銀次郎が学んだ東京英和学校改め青山学院の高木壬太郎院長が、西灘の関西学院の視察のため来神することになった。銀次郎を始めとする京阪神在住の学友が諮って、宿舎の神戸ミヤコホテルで高木院長一行の歓迎の小宴を催すことになった。
その席上、高木院長は出席者に感謝の意を表すと共に、現在計画中の青山学院の施設や教育課程の拡充構想をあきらかにした。
高木院長は、その二年前に院長に就任して早々、青山学院の学科充実、中等部の開設などの構想を打ち出した。その実現に際しては、学生数の増加が当然のことながら見込まれ、、校舎の増改築が必要となっていた。そこで、高木院長は第一期十年で百二十万円という多額の募金活動を開始し全国の学友を行脚しては、拡張案の説明と寄付への協力を訴えていたのだ。
宴席に移ったときに、銀次郎は高木院長と雑談していた。「いや、拡張計画という大風呂敷を広げていて何なのですが、実は8年前に新築した大講堂の雨漏りが止まらなくて。工事には足場を組まなくてはならないし、本格的な修理のために資金を確保しようとするのですが、貧乏所帯ナものですから、ついつい他の急な出費に消えてしまうので、困ったものです」。
「なかなか、やりくりは難しいものですな。業者の見積もりはどれくらいなのですか」銀次郎は何気なく高木院長に尋ねた。「そう、八百円程度です」。「そうですか」。その場は、その話しはそれで終わりとなった。
翌朝、銀次郎は勝田商会に出て、しばらくして高木院長を改めてミヤコホテルに訪ねた。
「いや、昨日はお世話になりました」。高木院長がにこやかに出迎えた。「院長さん、せっかく神戸までおいでくださったのですから、手ぶらで帰っていただくのも、申し訳ないと思いまして、これはお土産代わりと思って、どうかお納めになってくださいまし」と銀次郎は、金一封を高木院長に差し出した。
中身は現金千円であった。
「これは・・・」高木は少し戸惑いながら銀次郎に尋ねた。「いや、なかなか東京へ赴くこともままならないので、せめて学校のお役に立てられたら、という気持ちからです」、と銀次郎は応えた。
高木は、前夜の雑談のことを思い出し、そして銀次郎の真意を慮り、感激に堪えないという面持ちで感謝の言葉を贈った・・・。
その後、今年に入って、正式に募金に協力をしようということで、銀次郎は同業者である広海幾太郎らとともに京阪神の学友代表として募金趣意書に連名で署名して、募金運動を呼びかけるようになっていた。そこで景気づけに、と銀次郎はこんどは2万円という大金の寄付を、事務局に申し出た。それはその年の7月までの寄付金合計金額四万円の半分近くを占めるものであった・・・。
銀次郎が思いをめぐらしている間に、会合の議事はことごとく終わり、宴席に移った。金に糸目はつけない船主達である。花隈の芸者集でも折り紙つきの名妓が座敷には呼ばれていた。やがて上を下にのドンちゃん騒ぎに突入していった。
酔いに身を任せながらも、銀次郎は、「同じ金を遣うのなら、いっそのこと、ドンとやってやろうではないか」、と母校への「贈り物」をしようと心に決めたのであった。 (この項つづく)
本年も「灘建築夜話」を御愛読くださり、まことに有り難う御座いました。
来る新年も毎週更新を目指して、更に精進する次第です。引き続き、宜しくお願い申し上げます。 筆者 拝