所で、大正初期の神戸の三大船成金は、どのような学歴を経てきたのか。
内田信也は、麻布中学校から東京高等商業学校に進んだ。全国初の高等
商業学校であり、現在の一橋大学の前身であることは既に述べた。
高等商業学校といっても、今日の我々にはどの程度のレベルか実感が湧
かない。
こんなエピソードがある。学校は違うが、神戸高等商業学校(現神戸大学
の前身、現在の神戸市立葺合高校、同筒井台中学校、同上筒井小学校の
敷地にあった)が大正後期に大学令改正を契機とした大学昇格運動を展開
していた時、川崎造船所(現川崎重工業グループの川崎造船)社長の松方
幸次郎が、「高等商業学校の現状でも充分優秀な人材を輩出している。
大学に昇格しなくても充分やっていける」という趣旨のコメントを残している。
あるいは、鈴木商店で金子直吉の右腕としてロンドンで活躍し、後に総合商
社・日商を興す高畑誠一には、神戸高等商業学校を卒業するにあたり大学
進学の進路を希望したところ、同校の校長・水島銕也が、「大学へ行っても
学べることは知れている。実業の世界に飛び込んだらどうか」と諭して、鈴
木商店に送り込んだ、という逸話が残されている。
この2つのエピソードからは、明治の高等商業学校のレベルの高さが窺が
われる。内田はそうした意味で「エリート」であった。
一方の「ドロ亀」こと、山下亀三郎は、全盛期は「無学」を装っていたが、南
伊中学校を中退して故郷を出奔した後、京都で同志社にも関与した山本覚
馬の私塾に通い、東京に出てからも法律学者の穂積陳重が教壇に立つ明治
法律学校(現中央大学)に入学して勉学に励んだ、というエピソードを持つ。
ビジネスには、やはり「知識」はある程度必要であることを2人とも自覚
していたようだ。
では、松山を旅立った銀次郎は、どうであったか。
松山中学校を終えていた当時の銀次郎にしてみれば、勉学など眼中には
無かったかもしれない。故郷を後にした銀次郎の眼差しは、はるか北の空
を見つめていた・・・。 (この項つづく)