勝田銀次郎は、明治6(1873)年10月1日、伊予・松山
城下、唐人町に勝田林次郎とムメの長男として生を受けた。
唐人町の銀次郎の生家は、今の松山市大街道一丁目三の三、
大街道交番の西側、愛媛銀行の道を挟んで真向かいの位置
にあたる、という。
松山でも随一の商人町・唐人町にあって、林次郎は米穀
商を営んでいた。大店とまではいかなくとも、比較的裕福
であったといわれている。
銀次郎は、小学校を卒業後、旧制松山中学校に進学した。
勉学に励む傍ら、家業も手伝っていたと伝えられている。
信州の赤尾善治郎もそうであったが、この時代は風雲の
志を抱く青年は、いざ花の都へ、新天地へとの思いを抱く
青年が多かった。
銀次郎も、松山城下にあって、そうした時代の空気を痛
いほど感じ取っていたことは想像に難しくない。
明治23(1890)年、銀次郎一七歳の時、父・林次郎が病
に倒れ、帰らぬ人となった。そうした厳しい状況ではあっ
たが、翌24(1891)年、銀次郎は松山中学校を卒業した。
赤尾善治郎もそうであったように、銀次郎も父の死を機
に自分の将来を自らの手で切り開きたいという願望を押さ
えられなくなった。
彼は、郷里の松山を出奔した。(この項つづく)