世界大戦の開戦以来の日本国内のインフレーションは衰えなかった。しかし
ベルサイユ講和会議が終わり、欧州の戦後処理が動き始めた大正8年ごろには、
不定期便の船価は戦中のような勢いはなくなった。
そうした状況をみこしていたのかどうか、成金三羽カラスは海運業以外の他業
種にも手を染めていた。
山下亀三郎は、自社の石炭部門を独立させて、北海道の奔別炭鉱を買収し採掘
を進めた(後に住友に売却する)。また渋沢栄一らとともに扶桑海上保険の設立
にも関与した(後の住友海上火災、現在の三井海上の前身企業である)。扶桑海
上は、「事業の公益性を鑑み」、山下は役員には就任せず、経営を三菱や住友の
出身者に委ねていた。
一番旺盛だったのは内田信也である。内田汽船を設立して間もない大正6年に
貿易事業のために内田商事を設立。また佐賀県有田に帝国窯業、横浜に内田造船
所を作った。内田商事が扱ったのが、昇降機、エレベーターだった。内田商事が
出来た大正6年当時、まだまだ日本には高層建築は少なかったが、内田がシカゴ
の摩天楼建築を見聞していたのかどうかわからないが、来る時代に備えて、アメ
リカのエレベーター会社と契約を結んだのだった。
銀次郎も、海洋工事を手がける勝田埋築という会社を作ってはいた。しかし、
三井物産出身の石田貞二らが設立した太洋海運の相談役を引き受けるなど、海運
業に並々ならぬ情熱を燃やす銀次郎であった。
そんな銀次郎に、人を介してある依頼がもたらされた。
革命後のウラジオストックに、革命を逃れた婦女子がアメリカ赤十字社の保護
の下で滞在していた。しかし「避難生活」も3年となり、彼女らをフィンランド
へ送還しよう、と言うことになった。物の運送は手間が掛からないが、人は面倒
である。アメリカ赤十字社は日本の海運業界に、婦女子の送還業務を打診してき
たのだ。
銀次郎は、持ち船「陽明丸」に、客室装備、その他、人員輸送に必要な儀装を
施すとウラジオストックに差し向けた。3カ月がかりでパナマ運河経由で900
人をフィンランドのヘルシングホルス港へ送り届けた。
今度はドイツの赤十字社が、自国とオーストリアの捕虜の輸送を依頼してきた。
そうした儲けにならない仕事でも銀次郎は引き受けた。 (この項つづく)
http://52liangsha.x56.zbwdj.com
ナダタマ - ナダ建築夜話 : 底抜け!痛快!!船成金の館(38) by dr-franky
Trackback by � �若若若 — 2019年6月8日(土曜日) @ 07時52分54秒