「勿論ですとも。私は、住宅を大事なものだと考えております」。
銀次郎は、後段の武田先生の言葉に少なからぬ驚きを受けた。
その当時の建築界には、公共建築が上位で、商業建築があって、住宅建築は
余業、と見る風潮が少なからずあった。工科大学の卒業設計で、数奇屋住宅を
提出した安井武雄が首席卒業を逃した、とされる言い伝えがあるのも、当時の
風潮を現しているかもしれない。
「どのようなお住まいが良いと、勝田さんは考えておられますか」。武田先
生は、銀次郎に投げかけた。
「実は、敷地は決まっております。霊峰摩耶山の麓にある敷地です・・・。
妻が京の生まれ育ちなので、出来れば京風の趣の屋敷が良いと思っています。
さらに」銀次郎は続けた。「私達夫婦のためというよりも、広く神戸の町のた
めになる建物にしていただきたいのです。」
「ほう、それは、どういったことでしょうか」。
「私達夫婦二人だけなら、それなりの広さが有ればよいと思うのですが、私
達の間には子が居りませぬ。私達がいなくなったあとも、建物は残って神戸の
役に立って欲しいと考えているのです。
そう、洋風のホテルは神戸に御座いますが、和風の建物で外国からの賓客を
もてなすことができるような立派な建物を作りたいのです。」
武田先生は、これまでも様々な施主から住宅の設計の依頼を受けてきたが、
このような注文は初めてだった。
「そう、欧米の大艦隊が寄港しても平気なくらいの」。
武田先生は、この言葉を、ある意味「存分に腕を振るって欲しい」という
銀次郎の気持ちのあわられ、と受け取った。
やがて、芸伎の謡と舞が始まった。武田先生と銀次郎は、しばし杯を重ね、
舞を見つめていた。
「今日は、どうも有り難うございました。」
そろそろ京都行きの列車に間に合うよう、武田先生を駅へ送り出さなければ
ならない頃合だった。
「いえいえ、こちらこそ。ところで、今、新しい御宅のざっとした計画を練っ
てみました。この書付は差し上げますので、ご検討をいただき、御意見をお願い
します」。今度は、銀次郎が驚いた。手渡された紙片には、御殿式の邸宅のおお
よその間取りがインクの色も鮮やかに、描かれていたのだ。
こうして、銀次郎の新しい「家作り」は、具体的な段階に移ったのだった。
(この項、つづく)