先の十五年戦争のときもそうだったが、明治政府も中国東北部での
日本軍の苦境は、国民に伏せていた。そればかりか新聞各社は、清国
との戦争のあとの下関会議での賠償金を引き合いに出し、露西亜から
どれだけの賠償金をせしめることが出来るか、などと「獲らぬ狸の皮
算用」的な記事で世情を煽った。
別に自分がもらうわけでもないのに、人々の世間話にも賠償金のこ
とが話題に上るようになった。
しかし、開戦から一年余り経過し、莫大な人的被害と引き換えに旅
順要塞を攻め落とし、戦線が崩れかかりながらも陸軍第三軍が奉天入
城を果たしたところで、日露両軍の戦線は膠着状態に陥った。
さしもの露西亜軍も、日本軍から蒙った人的物的な損害は大きかっ
たが、いざとなればシベリア鉄道経由で援軍や物資の補給は可能だっ
た。日本軍は、巨人相手に精一杯背伸びしきった子供同然で、食料の
補給すらままならぬ有様であった。
漸く、五月の日本海海戦で、連合艦隊が対馬沖でバルチック艦隊を
撃滅して制海権を押さえた事で、戦局は日本優位となった。だが、日
本の国力からしても、これは潮時といえた。
一方のロシア側も、帝政に対する不満から「血の日曜日事件」など
民衆の蜂起が相次ぎ、内政に不安材料を抱えていた。
最終的には亜米利加の斡旋で、日露両国は休戦し、講和会議のテー
ブルに着いた。交渉の結果、樺太、朝鮮半島と東満州鉄道の権益を日
本は手にすることになったが、賠償金は埒外であった。講和会議の内
容が国内に伝えられ、賠償金が入らないと判った民衆は失望し、やが
て小村寿太郎全権特使、さらには政府の姿勢を弱腰であると批判を強
め、東京の日比谷では焼き討ち事件が勃発、厳戒令がしかれる事態と
なった(9月5日)。
その2日後の7日、神戸でも、神戸駅前・大黒座での政府批判と講
和反対の集会終了後、一部の聴衆が暴徒化し、湊川神社境内の伊藤博
文の銅像を引き倒し、市中を引き廻すという事件が起こった。暴徒は、
警官隊に鎮圧され、取り戻された伊藤の銅像は、密かに岩屋村の服部
兵庫県知事の別邸内に匿われていた、と言われている。
こうした世情を銀次郎は冷静に眺めていたであろう。
実は母ムメがしばらく前から、病床に臥せっていた。新天地を目指
したいという銀次郎の願いをじっと聞き入れ、漸く一人立ちした自分
を見守っていた。親孝行をせねば、と思っていた矢先のことである。
(この項つづく)