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2007年8月30日(木曜日)

底抜け!豪快!!船成金の館(11)

カテゴリー: - dr-franky @ 00時00分00秒

 その後、銀次郎がどのような道をたどったのか。

 明治期を中心に、近代の実業家というのは、幾つかの
例外を除いては、修行時代は経歴が詳らかではないこと
が多い。伝記でも、適当にごまかして書いてしまう、い
わば伝説時代といったところか。

 はっきりしているのは、東京英和学校を中退してから
約二年の空白の後、明治30年ごろに大阪中之島の貿易会
社・吉田商会に身を寄せた、ということだ。
 しかし、この会社はほどなく閉店となってしまった。
やむを得ず、銀次郎が次に目指したのは、神戸だった。

 日清戦争後の神戸は、鈴木岩次郎の急逝を受けて、
金子直吉と柳田富士松という二人の番頭により、鈴木商
店が洋糖や樟脳の商いを通じて徐々に頭角を現し、大阪
出身の兼松房次郎が、栄町通に兼松商会を興し、日濠貿
易に乗り出そうとしていた、そんな時代だった。

 今の中突堤のあたりに立てば、川崎尻では元勲松方正
義の長男・幸次郎を後継の経営者として迎え入れた、薩
摩出身の川崎正蔵が、払い下げを受けた元兵庫造船所の
拡張の青写真を描いていた。

 来るべき時代を見据えた地脈が、町のそこかしこで脈
を打ち始めている、そんな空気がみなぎっていた神戸に
銀次郎は降り立った。
      
 足立という、やはり輸出入を取り扱う商店に入店した
銀次郎は、雑用にきりきり舞いになりながらも、次に目
指すべき道を少しずつ探し始めていた。
                (この項、つづく)


2007年8月26日(日曜日)

底抜け!豪快!!船成金の館(その10)

カテゴリー: - dr-franky @ 08時20分00秒

 山下は、 やや表情を曇らせて、
「だがな、あいにく、ウチはついこの間、暖簾を上げたばかりで、
なかなか人を抱えて、という余裕はないんだ」。と事情を伝えた。

 「なあ銀次郎さんとやら、横浜は開港場だが、主だったところ
は毛唐が先取りして、こっちはおこぼれに預かるのもやっとの状
態だ。それよりも、大阪や神戸を目指したほうが賢明かも知れん
な」。

 「大阪・・・ですか」。銀次郎の表情は沈んだ。せっかく新天
地を求めて東上したにもかかわらず、西へ戻るというのは、銀次
郎といえども、踏ん切りがつかないところだった。
 銀次郎の当惑を見透かすように、山下は続けた。

 「大阪と神戸にも居留地がある。だが、帝の許しがなかなか出
なかったこともあって、開港が遅れた。大阪はそこへ来て、洋船
が天保山あたりまでしか入らない。だから外国人は、古からの良
港である神戸へ移って行っているらしい。」
 「毛唐にあごで使われるよりも、大阪の日本人の店に入ったほ
うが修行には向いているぞ。悪いことは言わんから、大阪へ行っ
てみな」。

 銀次郎は、「そこまで言われるなら、大阪へ行きます」と告げ
た。「銀次郎さんよ、もうおそらく会うことも無いだろうが、大
阪で名を挙げる日が来ることを、祈って居るよ」。山下は笑った。
 
だが、後年、互いに「戦友」とでもいうべき間柄となるまでに
至ることを、山下も、銀次郎も、このとき知る由も無かった。
                    (この項つづく)    


2007年8月16日(木曜日)

底抜け!豪快!!船成金の館(その9)

カテゴリー: - dr-franky @ 00時00分00秒

 東京英和学校を辞した銀次郎だが、幾ら熱意があるといっても、
ぽっと出の若者を従軍記者として採用しようという新聞社など、当然
の事ながらあろうはずもかった。
 いや、従軍記者というのは口実に過ぎなかったのかもしれない。
 彼は横浜の居留地近くを歩いていた。従軍記者が駄目なら、居留地
の貿易商人の懐にもぐり込んでやろう、と考えたのだ。
 
さりとて、煉瓦造や石造風の立派な商館に飛び込む肝っ玉は、流石
の銀次郎も未だ持っていなかった。ふと、傍を見ると「洋紙取扱山下
商会」という看板が上がった仕舞屋が目に付いた。「紙か。これから
の時代、紙は飛躍的に需要が伸びるだろうし、ここで商売人の見習い
をするのも悪くは無いか。よし一丁、ここへ飛び込んでみるか」。従
軍記者への想いはどこへやら、この淡白さも銀次郎なのである。
銀次郎は戸の向うへ声を掛けた。

 戸をあけて出てきたのは、浅黒で、小柄だが眼の底には鋭いものを
秘めた、年のころは三十前の男だった。
 「御用向きは」、胡散臭そうに銀次郎の顔を見て、店の主人らしい
小男がぶっきらぼうに切り出した。
 銀次郎は「人手は要りませんか」と申し出た。「一旗挙げようと、
東京へ出てきたが、なかなか思ったような稼ぎ口が無くて。」

 「おぅ、お前ぇさん、伊予の出か」最初は怪訝そうな眼差しの男-
山下の目が少しだけ緩んだ。どうも、この男も伊予の国から出てきた
ようだ。
 銀次郎は手短にここへ来るまでのいきさつを話した。
 「へぇそうかい。無鉄砲にも程があると思うが、どこかへもぐりこ
もう、というのは眼の付け所がいいかもしれん」。けなしているのか
ほめているのか、どちらともいえない言い草で山下は返した。だが、
追い払うでもなく、銀次郎に座布団を勧めた。
 銀次郎の不思議な魅力を、山下は感じていたようだった。
 銀次郎は進められるまま、腰をおろした。  (この項つづく)
 


2007年8月11日(土曜日)

底抜け!豪快!!船成金の館(その8)

カテゴリー: - dr-franky @ 00時40分21秒

 明治27(1894)年7月25日の豊島沖海戦を直接の契機に、8月1日に
日本国政府は清国政府に戦線を布告、後に日清戦争と呼ばれるようになる
戦争が始まった。
 このとき、日本国政府の開戦の判断に賛同した中に、ほかならぬ本多
庸一がいた。
 本多は、清国との戦争は義である、として軍隊への協力などを惜しま
なかった、と伝えられている。そうした本多の行動の背景として、先年
来のキリスト教=反国家という攻撃への、いわば対抗策をとろうとした
のだ、ということが言われている。
 ともかくも、国家的な難局に遭っての学校長・本多の取った行動に、
学生達の間でも、なにかに関わらなければ、という若さゆえの義侠心に突
き動かされる者も少なくなかったという。
 そうした中に、ほかならぬ銀次郎の姿もあった。

 英和学校の食堂では、昼食時になると誰かが新聞を仕入れてきて食卓の
上に広げては、議論の輪が出来ていた。
 新聞は、平壌の陸戦の様子を生々しく伝えていた。
 「もし君なら、戦地にどんな立場で赴くかね」、と隣の組の儀助が質問
を皆に投げかけた。
 「従軍記者・・・」銀次郎の口からそんな言葉が漏れた。「従軍記者に
なって前線の様子を伝えたい・・・」。

 それからしばらくして、銀次郎は本多校長と向かい合っていた。
 「せっかく、高等部の二年級にまで進んできるのに」、本多はため息を
ついた。「なぜ、今、従軍記者になりたい、と言い出すのかね」。
 銀次郎は、この国難に、英和学校での勉学を活かしながら自分なりの関
わり方として、従軍記者として戦地に赴き、その様子を克明に報道するこ
とで、人々の国威高揚に役立ちたい、と熱弁を振るった。
 英和学校での日々を通して、銀次郎の江戸っ子のように一本気なところ
を、本多もよく承知していた。一度は北海道を目指すといっていた無鉄砲
が、曲がりなりにも、ここまで自分の下で研鑽を積んできたことにも、人
並みならぬ賞賛の念を抱いていたのかもしれない。

 銀次郎は言った。「英和学校での、先生から受けた教えは忘れませぬ」。
 本多は、この青年を英和学校から送り出すことを決心した。
                         (この項つづく)

  


2007年8月1日(水曜日)

底抜け!豪快!!船成金の館(その7)

カテゴリー: - dr-franky @ 00時00分00秒

 「勝田君、どうだかね、試験の出来は」。
 寮の同室の平太が銀次郎の顔を覗き込む。
 「どうも歴史というのは好かん。人っちゅうものは前を向いて生きる
ものだ。後ろを振返るようで・・・」、といいながら銀次郎は笑った。
 事実、こうと決めたらあとは前をむいて進むだけ、という一本気なと
ころが銀次郎にはあった。
 とは言いながら、銀次郎は落ちこぼれるのでもなく、成績は中位のと
ころを泳いでいた。実家の仕送りに頼るわけにも行かない銀次郎、学内
の小間使いや、新聞配達など課外のアルバイトで結構忙しかったはずだ
が、不得意な学科も投げたりすることは無かった。

 銀次郎の学ぶ東京英和学校は、もともとは、東京・横浜でメソジスト
系の宣教師によって創設された学校が合流してできたもので、銀次郎が
入学する数年前に、個人の寄付金で南青山の伊予西条の松平左京太夫の
屋敷跡であるこの地を購入して移ってきたのだった。このときに、やは
りメソジスト系の女学校が英和学校の隣地に移ってきていた。

 ところで、今でこそ、「こんどの結婚式、チャペルでするねん」と真
宗教徒が携帯電話で連れに触れ回って居たって、「何言っているのっ、
阿弥陀様の前で数珠の交換よっ~!」と切れる御姐さんはまずいないと
思うが、明治20年代は、キリスト教を信心する人が、それなりの覚悟を
決めて、教会に礼拝に行き、洗礼を受け、という位、まだキリスト教に
対する世間的な見方は厳しかった。
 明治23年に発布された「教育勅語」を背景に、直接的には明治24(18
91年)の内村鑑三による「不敬事件」を発端として、キリスト教は国家
への忠節を否定し、社会秩序を乱す存在などと、キリスト教界を糾弾す
る神道、仏教者らに、本多らが反論するという、「教育と宗教の衝突」
論争が巻き起こるというご時世であった。
 東京なら英和学校や明治学院など、関西なら同志社、関西学院という
キリスト教系の学校へ進むのは、敬虔にキリスト教の信仰に触れようと
切望する者や、外国の文化・知識を身に付けて実業へ踏み出すための一
助にしてやろう、という銀次郎のようなタイプの人間だった、といって
も言い過ぎではなかった。
 
 だが、こうした時節に振り回されもせず、また、「隣のお姉さん」・・・
じゃなかった女学生に目移りすることも無く、新たな時代に漕ぎ出そうと、
銀次郎は知識の吸収に勤しむのだった。     (この項つづく)
 


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