その後、銀次郎がどのような道をたどったのか。
明治期を中心に、近代の実業家というのは、幾つかの
例外を除いては、修行時代は経歴が詳らかではないこと
が多い。伝記でも、適当にごまかして書いてしまう、い
わば伝説時代といったところか。
はっきりしているのは、東京英和学校を中退してから
約二年の空白の後、明治30年ごろに大阪中之島の貿易会
社・吉田商会に身を寄せた、ということだ。
しかし、この会社はほどなく閉店となってしまった。
やむを得ず、銀次郎が次に目指したのは、神戸だった。
日清戦争後の神戸は、鈴木岩次郎の急逝を受けて、
金子直吉と柳田富士松という二人の番頭により、鈴木商
店が洋糖や樟脳の商いを通じて徐々に頭角を現し、大阪
出身の兼松房次郎が、栄町通に兼松商会を興し、日濠貿
易に乗り出そうとしていた、そんな時代だった。
今の中突堤のあたりに立てば、川崎尻では元勲松方正
義の長男・幸次郎を後継の経営者として迎え入れた、薩
摩出身の川崎正蔵が、払い下げを受けた元兵庫造船所の
拡張の青写真を描いていた。
来るべき時代を見据えた地脈が、町のそこかしこで脈
を打ち始めている、そんな空気がみなぎっていた神戸に
銀次郎は降り立った。
足立という、やはり輸出入を取り扱う商店に入店した
銀次郎は、雑用にきりきり舞いになりながらも、次に目
指すべき道を少しずつ探し始めていた。
(この項、つづく)